ここでは1997年5月に「銀座百点」に掲載された「ヒサ クニヒコの“職人探訪”」を紹介しています。
小豆島と開くと、なんだか瀬戸内海にポッカリ浮いた小島のようなイメージがある。
小豆のような島という名前のせいなのだろう。
ところが実際に行ってみると、これがなかなかの巨島なのだ。
山あり谷ありと地形もなかなかけわしいのである。
島の周囲が140キロ、人口が約四万一千人、町が三つあり高等学校も二つあると聞けば、
けして小島ではないことがわかるだろう。
そんな小豆島の特産品の一つが素麺なのである。
素麺といえば夏のものと決まった感があるが、つくるのは冬場がいいのだという。
冬場につくる素麺も、厳冬期につくるのは極寒製といって特に人気の高いものなのだそうだ。
そこで、寒製のシーズンの最期になる三月の初めに小豆島を訪れた。
岡山新港から高速船で約三十五分。小豆島の土庄港に着く。
行政区分からいうと四国の香川県に着いたことになる。
港のターミナルを出るとすぐに目に飛び込んできた銅像が、あの『二十四の瞳』。
高峰秀子の先生と島の分教場の生徒たちとの交流をえがいた映画は、
ぼくたちの世代には忘れられない想い出の一つなのだ。
あの二十四の瞳の小豆島へ来たんだ!というくらいのものなのである。
最近では小豆島は、「日本の地中海」こと瀬戸内の気候を生かしたオリーブの産地としても有名だ。
港にある売店でもオリーブやオリーブ染めなどのグッズを売っていた。
土庄港から橋を渡って山のほうへ向かったところに目的のオオト食品がある。
素麺歴三十年という平林さんのやっている会社だ。
橋の近くには土庄の町役場があるのだが、
その前には麗々しくギネスブック認定という文字が踊っていた。
ぼくの渡った橋の下に流れている小さな川、と思ったのが、実は海だったのだ。
つまり一見、川のように見えるが、これが世界でいちばん狭い海峡なのだという。
ギネスブックもおもしろいものを認定するものだ。
オオト食品を訪れたのは、素麺づくりが一段落する夕刻。
ニコニコ出てこられた平林森春さんは、昭和十五年生まれというから今年五十七歳になる。
「エッ!もともとはサラリーマンだったんですか!」
小豆島に生まれた平林さんは、地元の高校を出たあと、大阪へ就職。
七年間もサラリーマンをやっていたという。
「こう見えてもソロバン一級、簿記一級なんです」
農業をやっていた両親の「島へ帰ってこい」コールで大阪から引きあげ、今度は島で就職、三年間勤めたあと、やっぱり勤めはあわない!
といきなり素麺業に転職してしまったのだ。
「実は家内とは職場結婚なんです。ですから、結婚した当初は、将来、素麺屋さんになるなんて思ってもいなかったんですよ」
それにしても、サラリーマンからいきなり素麺製造者への転職とは…。
「いやあ、実は友だちが素麺屋の息子でね。そいつがやっているのを見てたら、これならぼくにもできると思ったんですわ」
すごい動機である。素麺づくりは、そう簡単なものではない。しかもそうとうにキッイ仕事である。
それをボクにもできると簡単に思ってしまったのは、まさしく天啓だったのだろう。
当時は素麺は、つくるはしからどんどん売れて、景気のいい職業でもあったらしい。
作業が終わってガラーンとした仕事場には、ビニールをかけられた機械があちこちに置いてある。
「昔はみんな手仕事でしたけど、今はずいぶん機械が入るようになって楽になりました」
サラリーマンをやめて素麺業になるにしても、元手がいる。
仕事場には、仕事を始めた当時からのベテランの機械もあった。
これらの機械を準備するだけでも大変だったという。
幸い、農業をやっていた父親のつてでなんとか始められたのだが、いきなりおいしい素麺ができるわけではない。
それでも、最初の一ヵ月だけはベテランの人に来てもらったが、あとは見様見真似。
まったくの、いわば独学で、今の平林森春の味をつくりあげたのだそうだ。
最初の一年間はずいぶん泣いたという。
ベテランの人がやるとうまくいくものが、いざ自分一人でやってみるとなかなかうまくいかない。
しかも創業当時は素麺の乾燥は天日だけが頼りだった。
乾かしている途中で急に雨が降ったりしたら、素麺が全部ぬれて切れてしまう。
せっかく丹精こめてつくりあげた素麺が最後の段階でパアになってしまっては、なんともくやしい。
そこで平林さんは自分で工夫して、この地区ではじめて乾燥機を導入したりもしているのだ。
素麺づくりの修行では、味の修業とともにつくり方の新しい工夫も大切にしてきたのである。
「これが素麺の製造工程です」
平林さんが手渡してくれたメモを見ると、作業の開始時間がなんと午前二時半。
おもわずエッと声を出しそうになってしまった。
素麺は一日の工程でできあがるのだが、夕刻の五時ごろ終わるまでに約十五時間もかかっているのである。
翌日工程を見せてもらうことにしてあったのだが、まさか午前二時半とは思ってもみなかったのだ。
「そうですね。最初に粉を練り始めるのは二時半ごろですけど、ぼくが出てくるのは五時ごろですから、そのころいらしてください」
二時半ではなく五時と言われてホッとしてしまったが、
冬の朝の五時は、やっぱりかなり早い時間だ。
それにしても、夏場にツルツルとなにげなく食べている素麺が、午前二時半からつくり始めなければいけないとは……。
「いやあ、つまり素麺は、いわば生き物なんですね。粉を練ってから次々といろんな工程があるんですが、そのところどころで熟成させてやらなければいけないんです」
かつてはすべて人手でやっていた工程が少しずつ機械に置き換わっていっても、素麺ができあがるのにかかる時間は変えられないのである。
そんなわけで、翌日はまだまっ暗な時間にホテルを抜け出し、世界でいちばん狭い海峡を越えてオオト食品へ向かった。
瀬戸内海にかかる天の川がはっきり見えたが、日本で、こんなにはっきりした天の川を見たのは何十年ぶりだろうか。
昨日の夕刻は無人だった仕事場が、今朝は照明の中で活気づいていた。
あわただしく動く人影と機械の普がリズミカルだ。
ぼくが辿り着いたときはちょうど麺にヨリをかけながらのぼしていく作業をしている最中だった。
午前二時半から始まった作業は、小麦粉に塩と水をまぜてこねるところからだ。
その日の気温、湿度、天気の予測をしながら塩の量や水加減を決めるという。
約四十分こね機にかけたあと、麺圧機でいよいよ麺にしていく。
こねあがったつきたてのおもちのような大きな塊が、だんだんに段階を追って細い麺になっていくのである。
ぼくが着いたときには麺庄機で一回目にのばした麺を次のイタギ機でローラーをかけながらのばす作業と、イタギ機でできた麺にヨリをかけながらふたたび細くのばす作業をしているところであった。
平林さんはローラーから出てきた麺はまるで大蛇のようだと表現して笑っていたが、まさにウネウネと白い大蛇がのたくっている。
その大蛇を中ヨリ、小ヨリと次々とヨリをかけながら細くしていく。
大蛇から親指の太さへ、親指から小指の太さへという具合だ。
丸いタルの中に巻きあがっている大蛇の頭をつかんでヨリ機にかける。
ヨリ機のいくつもついた滑車の中に麺をとおしてから機械を作動させると、クルクルウネウネと麺が踊りながら次のタルの中にまき取られていく。
こう書くといかにも機械が自動的にどんどんヨリをかけていくようだが、実は大違い。
平林さんや奥さんがつきっきりで世話をしなくては麺はうまくまき取られないのだ。
麺の動きを見ながら微妙に機械を調節していく。
まき取り加減も、麺にゴマ油をハケで塗りながら面倒を見なくてはならない。
奥さんの手も、平林さんに負けない早さだ。
サラリーマンの平林さんと結婚したつもりだった奥さんは、平林さんの突然の転職にはもちろん大反対だったという。
規則正しいサラリーマン生活から、いきなり午前二時からの肉体労働に変わるのだから当然だろう。
しかも妊娠中だったというから平林さんもそうとう乱暴である。
あまりの過激さに、奥さんは体もこわしてしまったほどだったそうだ。
その奥さんが今では平林さんと二人でオオト食品の素麺の味を支えているのである。
しかも三人のお子さんまでもうけたのだから、ホント人生いろいろだ。
小ヨリをかけられた麺は、次に掛け機にかけられる。機械が細くなった麺を八の字にまき取っていく。
ちょうど毛糸を逆にまき取るような感じだ。
これも昔は手作業でやっていたという。
八の字に巻き取られた麺は、こんどは寝室で二時間ほど熟成させる。
寝室といっても別にベッドや布団があるわけではない。
長持ちのような箱の中におぎょうぎよく掛けていくのだ。
箱の中に三段に掛けていき、いっぱいになると蓋をして寝かせるのである。
麺が寝ている間に急いで世界でいちばん狭い海峡を渡りホテルに戻り朝食をとる。やっと朝の八時だ。
朝食をとってから再び海峡を渡りオオト食品に戻ると、
いよいよこびき引きの工程に入るところだった。
こびきとは八の字にまき取られた麺をのばしていく工程だ。
手延素麺の名前は、かつてはこの工程を、手で引っぱってやっていたことからくる。
八の字にからめた両側にある棒を機械が上手にはさみ取り、のばしていく。
寝室から出された三〇センチくらいにたばねられた麺が、五〇センチくらいにのばされる。
平林さんが始めたころは、棒を両足にかけて、もう片方の棒を両手に持って引っばっていたそうだ。
もちろん奥さんも一緒である。今の機械は、その人間のやり方をそっくり写し取ったものなのだ。
こびきで引いた麺は、ふたたび寝室で二時間ほど熟成させる。
それを機械で再びのばすと、最終的には人の背たけより長くなっていく。
つまりそれだけ麺が細くなっていくというわけだ。
それにしても最初の小麦粉から始まった麺が、こんなにも引っぱりに強いとは本当にびっくりする。
塩加減など微妙な違いで、麺がひっついたり、切れたりしてしまうのだという。
そしていよいよ天日干し。
台車のさおついた物干し竿のような台に、まっ白にさらされた素麺が目にまぶしい。
ちょっとした風にもサラサラとたなびいて実にきれいだ。
ここでも日のあたり具合、風の強さなどを見ながら天日にさらす時間を決めていく。
小豆島には約三百軒の素麺製造者があるというが、天気のいい午後には島のあちこちでこの光景が見られるはずだ。
まるで帆掛け船の帆のようだと思ったら、風の強い日には台車ごと走り出してしまったこともあるという。
とにかくどの工程でも、いっときも目を離せないのが素麺づくりなのである。
「だから、きちょうめんな人でないと、素麺づくりには向かないみたいですよ」
天日のあとは屋内の乾燥室で乾かしてから切断、結束、箱に詰められて完成だ。
午前二時半からの長い工程が夕刻になってやっと終わる。
機械化された部分は、結局、人手だけのときより生産量が増えたということだけで、手間そのものは同じようにかかっているのである。
厳冬期につくる極寒製を含め、十月半ばから三月末ぐらいまでは寒素麺、あたたかい時期にはやや太めの太素麺をつくるという。
八月以外は一年中、休日を除いてこの作業を繰り返しているのだから大変な仕事である。
そんな平林さんの唯一というか熱狂的な趣味は野球だ。
それも阪神タイガースの熱狂的なファンなのである。
事務所のあちこちにもタイガースグッズが散見、六甲おろしを大声で唄うとすべてのストレスがふっとぶという。
なにしろ高校のときには応援団長だったというだけあって応援も本格的だ。
おまけに高校野球が始まると大変だという。
そんな平林さんのおいしい素麺は、銀座の本店浜作でも食べられる。
大女将さんが偶然琴平で食して惚れこんで以来のつきあいだとか。
「ところでオオト食品のオオトってどういう意味なんですか」
「これは裏の山の名前からとったんですよ」
仕事場のすぐ近くにある皇踏山からとった名前だという。
漢字で書くと読めない人もいるのでカタカナ表記。三九四メートルもある高い山だ。
子供のときから登ったり眺めたりしていた山である。
三十年以上にもわたって平林夫妻の素麺づくりを見守り続けてきた山でもある。
有限会社にするときにつけたというが、まさにピッタリの名前ではないか。
ただ素麺づくりの後継者については、ほかの業者同様、なかなか……というのが現状。
おいしい素麺は今のうちに食べておかなくてはいけないのかとちょっと気になってしまった。